仏教の未来2

2020年9月7日

 先日、私は「仏教の未来」が案じられるという内容のコラムを書きました。江戸時代の寺請制度から始まる慣習の中で「葬式仏教」と揶揄されながら衰退しつつある現在の仏教。イエスキリストのような救世主が現れなければ仏教は廃れてしまうのではないかと。しかし先日、救世主とはこのような方なのかもしれないというある方の記事を読みました。それは大峯千日回峰行という9年1000日間に渡っておこなわれる天台宗の荒行を満行された塩沼亮潤さんというお坊さん・・・と言っては失礼でしょうか、「大峯千日回峰行大行満大阿闍梨」の称号を持ち、“生き仏”と言われている方だそうです。私がなぜ救世主たる方かもと感じたかというと、もちろん想像を絶するような荒行をやり遂げる精神力には恐れいりますが、その方の宗教に対する考え方に「宗教」とは何たるかのヒントを得たような気がしたからです。その考え方を一部引用させていただくと、

 

「宗教者がやるべきは、みなさんの心のよりどころとなるような人格を形成し、個の力を伸ばすこと、そして利他の心を持ち『祈ること』です。すべての宗教の原点は愛であり祈りです。」

「私たちができることは、善い行いを一日一日繰り返すことだけ。それはいつしかその人の身に付く。多くの人が善い行いを実践すれば、自ずと社会は変わっていく。」

と言われていました。その人格を形成するために自らを律し厳しい修行に臨まれるのだそうです。

 

 私は布教というのは神や仏の教えを説き信仰により救いをもたらすことだと思っていました。結果そうなのかもわかりませんが、理解できていなかったのはそのプロセスだったような気がします。塩沼師の言われることから考えると、宗教の存在意義は己を厳しく律しながら心の深い人格を形成し、利他の心を持ち祈ること、即ち「愛」を実践することなのだと。そういう生き方をされる師を尊敬する人たちが師を支持し、自らも人生の矛盾に負けず安寧な心持ちを得んがために師の教えを乞いたいと集まるのでしょう。そうして善い行いをする人たちが増えていくことで世界が平和になっていくのだということなのかもしれないと感じました。

 

 私なりに考えると、「宗教」ありきではなく、「人格」ありきなのであり、「善き人格」が伝播していくことで世の中を「善き場」に変えていきたいという強い「想い」ありきなのでしょう。今までの自分の浅薄な考え方が恥ずかしい限りです。

 このような考え方の方がいらっしゃるのであれば「仏教の未来」・・・というよりも「世界の未来」は明るいのかもしれませんね。

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