あれから8年

2019年3月15日

東日本大震災から8年が過ぎました。月日が経つのは早いですがあのおぞましい記憶はいまだ鮮明です。
私はあの日名古屋に出張で行っていました。午後3時前、おおきく揺れて建物から飛び出しました。そして波打つ地面や電柱に一体なにが起こっているのかとっさには判断できませんでした。いそいで名古屋の事務所に入り、仙台の事務所のメンバーの安否確認作業をはじめました。なかなか携帯電話がつながりませんでしたが幸いなことに会社のメンバーも家族も全員無事で大きな被害はありませんでした。しかし私との電話中も建物の中で余震におびえているメンバー(余震の音が電話のこちらにも聞こえていました)、仕事の現場に被害確認に走る途中で津波にのまれそうになりながら、大急ぎで引き返してあやうく難を逃れたメンバー。とにかく全員が必死でした。その日の夜はTVのニュースで信じられない光景が画面に映し出されていました。あの瞬間も助けを待ちながら寒さに震えながら息絶えていかれた方が大勢いらっしゃっであろうことを考えるだけで今でも想像を絶する悲しさに襲われます。

一年後私は震災後はじめて東北の被災地に足を運びました。震災被害をテレビを見て想像で考えている、どこか他人事のようにしか捉えられていないかのような感覚。このままでは死ぬ時に自分の心に何か悔いを残しそうな気がして。何ができるわけでもないのに足を運び大変な状況を実際に目にすることで自分の傍観者感を拭い去りたいという、自分で自分に対する言い訳でしかなかったのかもしれませんが。

あの日報道されていた地に立つと、この地で家族の繋がりが無残にも引き裂かれたのだという現実が、今までの頭の中での理屈だけでの悲しみに加え、視覚によるインパクトが加わることで、悲しみを越えた虚無感とも言える感覚が強烈に私の心に迫ってきました。
大川小学校の現場では、震災時に報道されたときは、その状況を表す新聞文字を見ただけで涙が溢れたのに、実際に現場に立つと涙という生理現象よりも、言葉にできない感覚に全身を覆われ、ただ茫然とするのみでした。「あの裏山になぜ避難させなかったのか?」との非難の声が今も報道されます。私も現地を見るまではそう思っていました。しかし実際にあの急な斜面の裏山を見たとき、低学年の子供達も大勢いるなかで先生達が決断できなかった迷いの心の内を、わずかながらも自分の迷いとして思えたような気がしました。いずれにしても私の行動はただの自分の他人事としての気持ちの葛藤をなだめたいだけの自己満足にすぎなかったのだと思いますが。

お亡くなりになられた方々のご冥福を深くお祈りします。

はやく被災地に笑顔が戻り溢れる日がくることを願っています。

セレモニー椿
事業統括部長
池水 健