商品としての葬儀

2020年2月4日

 先日、「日刊SPA!」のコラムに演出家の鴻上尚史さんがお父様が昨年亡くなられた時のことをコラムで書かれていました。表題の「商品としての葬儀」というのはそのコラムの題名の中にあった言葉です。

 非常に共感を覚えた内容でしたので、私の伝聞調で誤解が生まれることのないようにコラムの一部をそのまま転載させていただきます。(鴻上さん、日刊SPAさん、すみませんm(__)m)
 
『葬儀社の人が来て、定型のお悔やみの言葉の後、「今から、いろいろとお話しします。2、3時間、かかります。大丈夫ですか?」と聞かれました。「2、3時間」という長さが、「大変なことが起こった」という一番の実感でした。葬儀社の人はとてもよくしてくれました。何の問題もないどころか、深く感謝しています。
それでも、次々に示される「商品としての葬式」のカタログにだんだんと怒りを覚えました。
それが資本主義なんだ、葬儀もその原則に従っているだけなんだ、と言われればそれまでなのですが、それでも、骨壺が数千円から数百万円までの値段で示されていたり、棺桶が質素なものから華美なものまで数万円から数十万円まで表示されていたり、父親が最後に着る死装束が何千円から何万円までだったり、父親の周りを飾る花束の値段だったり、意味が分からない儀式のあれこれが何万円や何十万円もしたり、お通夜に出す食事のランクがいくつかあったり、葬式の後の精進落としと呼ばれる会食のランクもさまざまにあったりと、すべてが金額に、それもかなり高額の金額で装飾されていくことに、だんだんと哀しみながら怒りがわいてきたのです。』

 私がどこに共感したのか?ですが、鴻上さんの言葉で、

『すべてが金額に換算されカタログから選択できるシステムへの違和感』
 
 これに共感される方は多いのではないでしょうか。民間会社が事業として継続していく以上止むを得ない部分はあるのですが、すべてが商売ベースでの構成になっています。鴻上さんも言われているように、一般的な葬儀社では棺、骨壺等々仏具にもすべてにランクがあります。普通に商売として考えれれば葬儀社側としてはできるだけ単価を上げていきたいと考えるのは当然でしょう。しかしそれは商売で言う「顧客(=ご遺族)」が求めているものなのでしょうか?この業界は提供側と顧客側の知識レベルのアンバランスさが生み出す歪んだ商慣習があるとこの事業に踏み出したときから私は感じていたのですが、このコラムを読んだときに私の感覚はある意味普通だったんだとお墨付きをいただいたような感覚を覚えました。

(といいながらここで私も商売の宣伝をするようで恐縮なのですが)
だから椿の葬儀は必要なものはすべて含んだ料金で提供させていただきますし、ご遺族様が望まれない限りオプション等を営業することはないのです。

 私たちが心を傷めていらっしゃるご遺族様に提供したいのは、高価な棺や骨壺や、絢爛な花ではなく、「時間」なのです。
 ゆっくりと心行くまで故人様と過ごし送ることで心の傷みを和らげるための「時間」なのです。